2010年9月5日日曜日

人の性格

こんにちわ!日本はまだまだ暑い日が続いていますか?パサディナは、昨日は久しぶりに暑いな〜、って思ったら35℃を超していました。車外温度は40℃を超えていたので、暑かったです。でも、空気が乾いているせいか、体がしんどい、と感じるほどではなく、水分をしっかり補給して乗り切りました。今日は30℃ほどになっていて、また涼しくなるそうです。季節の変わり目は、体調管理しっかりとしたいですね。

今日は、この間子供たちに接していて面白いな、と思った一コマから。

息子には生まれた時から一緒によく時間を過ごしている、兄弟みたいな友達がいます。身近だからか、しょっちゅう喧嘩もします。仲が良い時は、親たちを寄せ付けないくらい、ぴったり寄り添っています。

そんな二人がまた喧嘩をしていました。原因を聞いても、どちらにも言い分あり、どちらも譲りません。どちらかも自分の視点から見たことを話しているとしても、誰かが少しだけ自分に好意的に話しているみたいです。

「そんなに、喧嘩ばかりしているんだったら、もう、友達やめちゃえば?」
とちょっと誘発的な質問をしてみました。約6歳児二人は、しばらく考えていて、友達は言いました。

「僕、友達やめるわ!」

えっ????私は正直、全くこの答えを期待していなかったのですごくびっくり、心の中では動揺しました。だって、あんなに仲良かったのは、何なの〜〜〜?と思いつつ、私もホンの数秒だったと思うけど、黙っていました。息子は、友達の顔をじっと見つめていました。

「僕、友達、やめないよ。今までもベスト・フレンドだったし、これからもそう。だって、神さまが僕たちを会わせてくれたんでしょ?ね、ママ?」

息子の言葉は、私が教会で習っていることをそのまま口にしただけです。でも、母親としては嬉しかった。また、私が言っていなかったとしても本来わが息子は、こういう性格なのです。

もう4年ほど前、まだ子供が2歳って間もない頃に、私は言ってはいけない言葉を子供に対して発してしまいました。そのときの私は、仕事環境とかでイライラしていて、夫の不正直さにほとほと呆れ疲れて、神さま以外に信じることができることってないの?っと思っていました。

そのときの息子は言葉をまだ文章で話し始めたばかりなのに、はっきりとした言葉で言いました。「ママ、僕を捨てるなんて絶対に言ってはいけないよ!だって、僕ね、長い間、ママの子供になるのを待っていたんだからね!楽しみに待っていたんだよ!ママのところに生まれてくるように、イエスさまにお願いしたんだからね!」

この言葉は、神さまが息子の口を通して語られた、と思うほど私の目を開けました。私には、子供を捨てるつもりもないけれど、神さまが与えられた「縁」に改めて感謝しました。この子が私の子供であることによって、私は救われている。

私はすごく閉鎖的な子供時代を過ごしました。家族に心を開くこともなかったし、傷つくのを恐れていた。自分が生まれた者の中で最低だ、って言われるのが嫌で、自分の何が優れているのかを一生懸命誇示しようとしていた。でも、優れた人はいっぱいいるし、どれをとっても、人間の世界のことであって、神さまはそんなところを見てはおられないんだよね。

そんなこんなで、私は小さい頃から、自分の親に対しても情が薄かった。そして、人に対しても、「縁」を築くということを知らなかったのです。もし、息子と同じ状況になったら、「あっ、友達やめます!」ってきっと発言したと思う。

子供の性格、って生まれながらにして与えられたものがある。自分の性格のことで人は悩んだり、自分を嫌ったりすることがある。でもこの性格は私たちが選択して、与えられたものではない。とすれば、誰が与えたの?

この間礼拝の説教の中で答えがもらえたの。これは「指定的みこころ」で、神さまがあなたに託したものなんだよ。とすれば、人間がどれだけそれを受け入れて、感謝していくか、ということで、その性格は長所になる。そして、そこに神さまが自分のために立ててくださったご計画が見えてくる。私たちは、自分のことあまり知らないけど、神さまは私以上に、私をご存知である方。

思春期の頃の私は、自分のことが大嫌いで、いつも「消えたい」って思っていたけど、今は生きていることが喜びです。そして毎日が楽しい。何の変哲のない毎日でも、それが神さまに与えられたものであることを知るとき、私の心は幸せなのです。


******今日の聖書の言葉*****

 あなたの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。
            (イザヤ書 43:4)

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2010年8月30日月曜日

虐待のニュースが続く中で

私は、このニュースを初めて耳にしたとき、この冷蔵庫に入れられた子供とわが子供が同じ歳だった。どうやって、自分の子供が入っている冷蔵庫を毎日覗くことが出来たんだろう?とすごく疑問だった。そして、何という親だ!って母親に対して、怒りが来た。

救え幼い命:児童虐待の現場から/1 兵庫・冷蔵庫に4歳男児遺棄、2年後に自首 mainichi.jp/select/jiken/n… via @mainichijpnews


その後詳しい話しを知らないまま、新聞での特集の中で、母親の事情を知った。そうだったんだね。今は、この母親にハグしてあげたい。そんな気持ちです。

前回記述のように、日本への帰省中に妹と話した私は、いま起こっている事件に対しての犯人の幼さ、についても意見をかわした。どんな場合でも、精神鑑定の結果がどうとか、ということが言われ、書かれている。

でもね、

妹に言わせれば、

やっぱり、みんなもう大人なんだよね。

善悪の判断は自分でするべきではないか?ということだった。

私は特にこの虐待に関して思わされることがいくつかある。
1。この母親は、相談するところがないと思えても、子供を預かってもらっていた保育所の先生等には話せなかったのか?
2。出会い系サイトであった人に、簡単に自分の人生を委ねてもいいのだろうか?
3。この母親の家族は、孫に会えないことに2年も気づかなかったのか?
4。この母親は、本当に自分の実家へは帰れないと思ったのか?

虐待の事件はあるべきではない、と思う私は、さらに言いたいのです。
もし、この母親が、肩身の狭い思いをしても実家に帰ることが出来れば、あるいは相談相手として、誰かが自分のことを受け入れてくれると知っていれば、このような結果は招かなかったはず。

この人は、自首するまでの2年と言う長い時間の毎日を、冷蔵庫を開けてどのように悔やんでいたんだろう。

私は、誰をも人のことを責めることは出来ない。自分だって疲れている時、子供に辛くあたってしまうことがある。子供の要求に応えなくては、と思っていても、そう出来ないことも沢山ある。

もう一つ思わされるのは、この母親も、また虐待をした義父も、子供の頃には同じように虐待されてきたのではないのだろうか。だから、それ以外の方法を知らない。

本当に愛のある接し方を誰かにされていたら、どんなに冷たくなっていた心だって開くのではないかな。誰かが、自分のためにいのちを捧げてくれたって知ったら、そのいのちの重みが理解できるようになるのではないかな。

私も親に虐待されてきました。小さい時に、近所の方で「子供はそんな風に体罰を与えても、良くは育たないよ」と云い続けてくださった方がありました。その方の言葉を、その頃の母は理解できなかった、と云っていました。でも、いま孫を目の前にして、解る、って。もう遅いよ、だって、私それよりも前にイエスさまの愛を知ったからね。その愛を全うしてくださっている牧師先生ご家族にも出会ったし。また、そして母が一生懸命に私を育てようとしていたこともよく解るようになりました。

もし、あなたが育児の最中で、子供に辛くあたってしまうことがあると思ったら、誰かに相談してください。身近に信頼できる人がいないと思ったら、行政の機関を頼るということも出来ます。あなたのパートナーが自分の欲求を満たすことが出来たとしても、子供を亡くして、一生後悔して過ごすより、あなたには良き未来が待っていますよ。

もし、あなたの近くで虐待されていそうな子供を見かけたら、勇気を持って声をかけてあげてください。あなたの一声がその子の命を救うことになるかもしれません。

そして、もし、あなたがクリスチャンであれば、世の中の光として存在し続けてください。あなたの眩しい存在が、家族の命を救うかもしれません。

虐待はいますぐ、無くならないかもしれません。でも、今の子供たちの時代に、本当の愛の大切さ、弱いものを守ることの大切さ、そして自分がどんな状態でも受け入れてもらえる人が、神が、いることが分る人ばかりになったら、悲しい事件は無くなるでしょう。

マーティン・ルサー牧師が、黒人のこと白人の子供が手をつないで学校に通うことを夢見たように。私は、小さないのちが、安全で、安心して暮らせる世の中を夢見たいです。そこにも神の国が、存在している、と思えてならないのです。


******今日の聖書のことば******

  神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
  世を愛された。
  それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、
  永遠のいのちを持つためである。 
             (ヨハネの福音書 3:16)

  神は人をご自身のかたちとして創造された。
              (創世記 1:27)
**********************




2010年8月28日土曜日

弱かった私と感謝の大切さ

先月、あの熱中症で病院に運ばれる人の数がピークになった週に私は息子とともに、日本へ帰っていました。あづ〜〜〜〜〜。っていうの、何の、本当にこの暑さ、何年も忘れていた自分にびっくりしました。しかも、やっぱり、蒸し暑い。ロスは暑くなるけれど、湿気がないから過ごし易いんだよね。だから、日本からロスにいらっしゃる方々は、そんなに気温が上がっていないと思うのと、水分の摂取が足りなくて、脱水症になる方が多いので、要注意です。


話しを戻して。私はこの蒸し暑さの中で、大丈夫かな、って正直思っていました。それはね、かつての私は、今の私だけを知っている人からすると想像もできないくらい、体が弱かったんです。ましてや蒸し暑さに対抗する程の体力がなくて、しょっちゅう夏バテを起こしていました。ロスで生活していても、水分摂取がほんの少し足りなくても、すごい頭痛や体のだるさで寝込むこともしばしばでした。7月の帰省を前にして、体力が守られるように、と祈らなかった日はないほど、だったのです。


名古屋は暑かったです。午前10時になる前に、摂氏30℃を超えて、朝水風呂に入っても、お風呂場から数歩歩いて洗面台に行くまでに汗びっしょり。かなわん。。。。


滞在二日目、ちょっと頭痛がし始めて、来た来た!って思いましたよ。でもね、これは以前の私にとっては、ごく普通のこと。いえいえ、当たり前のことだったんです。しかしながら、今回の私は息子連れ。体調を壊しているわけにはいかず、祈りましたよ。イエスさまの名を呼んで。頭痛の霊が私から出て行くように。そして、私は健康です!って告白したんです。


滞在中は、何度も父が言っていました。「しかし、昔は20歳まで生きるだろうか、と思うほど細くて、体も弱くて、ましてや子供なんて産めないと思っていたけど、こうしてこんなに太って、元気なんだもんなぁ〜」はい、もちろんこれは私のことです。私は気管支系が弱かったのと腎臓も悪かったし、何しろ神経質で否定的、長生きはしない、と思っていたんでしょうね。父にとっても、今の私の存在そのものが奇跡のようでした。


気づけば、祈った頭痛は30分もしないうちに、全くどこかに行っていました。こんなに早く頭痛がとんでいったのは、初めてかも知れません。よく、癌とかの大病に関しては、祈りの課題としてあげる人が多いけど、頭痛とか風邪は祈らない人が多い、と聞きます。今回の経験からも祈るのをお薦めします。


そして、私と息子の日本滞在は、あの猛暑の中も、体力ばっちり!守られましたよ。


神さまに感謝して♡


*****


話しは変わって、今回の滞在中に実の妹と沢山話す機会と時間が与えられたことにも感謝です。妹は、臨床心理士をしています。学校のカウンセラー等をしているので、いじめとか鬱、アスペルガー、自閉症の子供たちに接しているようです。


ここ数年の日本における悲惨な事件の中で、やっぱり自分だけの利益だけを求める人が多いね、という意見に同意していました。いくつか二人の間で「本当にそうだよね」という感想がでたものに、


子供のうちから早寝の習慣を付けておかないと、後になって精神を煩うことが多いのでは。
(これは私の経験からも言えます。勿論それがすべてではないです。でも発生確率は、早寝をさせている子供に比べるとはるかに高いはずではないか。)


精神病になり易い人の傾向として:多くの人が人のせいにしている。
人に感謝が出来る人は、精神病になっても専門家にかかっている場合にも治りが早い。


そして。。。いま、カウンセリングにいらっしゃる方々の中で、オンラインで自分のニックネームやハンドルネームのみを公開して出来た友達が多くいることを自慢している方がいらっしゃる。つまりリアルの世界は、彼らの中に存在しないもの、してはいけないもの、あるいはする必要がないもの、と処理されている。


なんだか、ちょっと、淋しい世の中になってきましたね。


実は、私自身も想像の世界に浸って、親を憎み、自分の生活を憎み、精神に病み、苦しんでいた時があります。感謝する?そんな言葉はなかったです。「なんで私ばっかり!?」「なんで私の親はこうなの?」いつも非難の目は他人に向いていました。


感謝できる、って大切なことですね。子供にも、感謝の気持ちを忘れないように。小さいことでも、そう、晴れの日にも、曇りの日にも、雨の日にも、神さまがくださったその一日に感謝して、また生かされていることへの恵みにも感謝して。そういう気持ちが持てる人になってほしい、と願っています。もっとも、親の私が心から感謝していなければ、この気持ちを引き継ぐことは出来ないと思いますけど。


ちょうど、このことを考えていた時に、私の神にある兄弟のお一方が、通勤一人礼拝という題の日記を記述しておられたので、興味深く読ませていただきました。


今日生きていることが感謝できれば、そして明日に期待できれば、どんなに今が暗くても、一筋の光が差し込みますね。


自分の子供にではないかもしれないけど、もしあなたの周りに、感謝できない予備軍がいたら、あなた自身が光となるチャンスでもありますね。


息子が横から、もうネンネしよう!と私の腕を引っ張りますので、今日はこの辺で。
聖句も書き込みたかったけれど、また。。。。明日。。。かな?


お休みなさい!


明日も良い日でありますように!
神さまに感謝しつつ!イエスさまに感謝しつつ!


そして、今日もこのブログを訪れてくださった、あなたにも感謝しつつ!

2010年8月23日月曜日

8月に思うこと

 今年の8月15日は、65回目の終戦記念日で、新聞でも各紙でいろいろな特集を読むことが出来た。改めて、私が思ったのは、戦争で犠牲になった方々がいて、日本人として生まれた私が存在しているんだな、ってこと。特に、広島、長崎の原爆のことを読み、思いを巡らせるたびに、そう思わずにはいられない。

これは毎8月に思っていたことでは決してなかったけれど、7月に帰省した際にも、いま聞いておかなければ聞きそびれてしまうかも、と思ったので、両親にわずかに残る戦争の記憶を尋ねたから。

ロシアで捕虜になったことのある母方の祖父に、戦争のことを話してほしい、とせがんだことがある。確か私が小学校3年生で、初めてカセットレコーダーを手にした最初のインタビューを祖父にしようとした時だった。

祖父は、同じ部屋に私や祖母がいる時は決して話し始めなかった。自分一人の時に、少しだけ録音してくれた。が、少し話しては、涙にむせて、録音が出来たのはほんの数十秒だった。

戦争の間、そして戦後日本に帰ってくるまでに、食べられるものは何でも食べた。蛇も、ミミズも、カエルだってごちそうだった。

捕虜になっている時に、毎晩交代で義務づけられていた見回り当番があった。祖父は自分の当番の夜、どうしてもひどい頭痛が収まらず、捕虜仲間で気の合う友人が、当番を交代してくれた。そして、その晩、何者かが見回り当番を撃った。見回り当番は即死だった。祖父が聞いたのは、寒い夜空に響く銃声だけだった。祖父は、それを一生気にしていた。90歳を過ぎて、自分の記憶がいつもはっきりしない状態でも、亡くなった友人のことを思っていた。

祖父は多くを語らなかった。祖父にとって戦争は、消したくても消すことの出来ない思い出だったのかもしれない。

戦争は、極普通の人に、殺すか、殺されるか、という選択を迫るのだ。

自分の身代わりに誰かが亡くなる。

私には十字架の上で、私の罪のために亡くなってくださった方がある。そう、その人の名はイエス・キリスト。ある時、祖父にイエスさまのことを話したら「もったいない、もったいない」と言って大泣きした。彼には、そのいのちの重さがはっきりと分かったからだろう。

私たちは、いま、物質的にも豊かになって、平和にも恵まれて、多くの点で、戦時中、戦後直後から比べたら富んでいる。でも、そのありがたさを誰かが伝えていかなければ、当たり前のことになってしまう。いのちの重さだって、メディアを通して伝わってくる意見等では、なんだか軽いものになっているように響く。

私も自分のいのちを虚しいもの、と考えていた一人ですから、大言壮語はできません。そんな人間でも、こうして毎日を生きる喜びを、いまは与えられているのです。

伝えていきませんか?

あなたに与えられた、命の大切さ。イエスさまにあって、生けるものとされた喜び。


**********聖書の言葉*****************

   神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
   世を愛された。
   それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、
   永遠のいのちを持つためである。
              (ヨハネの福音書3:16)
********************************



5歳の息子が聞きました。「あの大きな爆弾(原爆)を落とされたのに、どうして日本とアメリカはいま仲が良いの?」
赦された故に、赦す、ということを知っているキリスト者は幸いですね。



2010年5月23日日曜日

何をもって恵みというのか

ここ数ヶ月、たくさんのみことばの祝福がどさっと固まりで降ってきたかのように、私はいままでにも何度か読んだはずの聖書の中で、同じ聖句からも、いままでと全く違った深さでの神さまの心を知りつつあります。そして、聖書のすべてを通して、神さまがイエス・キリストを通しての愛を語っておられること、知りつつあります。

昨日は、礼拝の後の祈りの交わりの時に、ふとしたことから「子育てで気をつけていることとかありますか?」と質問されたので、私はクリスチャンとして子育てが出来ることの恵みを分かち合わせていただきました。プラス、私たちが親として、人間的な標準から神さまが子供に望んでおられることをブロックしてしまうような、発言、行動、選択をしないように、というのは私自身が一番気をつけていることです。

クリスチャンとしての子育てで、何が恵みなのか。子供一人一人に神さまの計画がある、とはっきりと伝えることが出来ること。

これらは、そんな中で見つけた映像のご紹介です。(緑の文字の上をクリックしてください)実はこの方のことを知ったのは、跆拳道のスタジオでパンフレットを受け取ったときからですが、やっと時間を見つけましたので、皆さんと分かち合いたく。

もし、あなたがひとりで悩んでいらっしゃるなら、特に見てほしいです。

*******今日の聖書の言葉******

 私はあなたがたのために立てている計画を
 よく知っているからだ。
 ー主の御告げー
 それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
 あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
               (エレミヤ書 29:11)

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2010年5月19日水曜日

たくさんの祝福

すごくご無沙汰してしまいました!皆さん、お元気でしょうか?

今年に入って、子供に要求することは、大人も実践して良い例を見せてほしい、というようになった息子から、「ママ〜!早く寝て!もう寝る時間だよ!」と何度も声がかかり、自分の時間が著しく短縮されていること、加えてコンピューターのキーボードが壊れてしまって。。。カーゾルが動かない!数字は入力できない!と、結構悲惨な状態のキーボードで日記の書き込みにトライしたのだけれど、短気は損気の代表と言えるくらいだった私は、短い文章少し書くのに、肩こりになったりして。。。ブログのスキンも変えたかったのに、それらを探す時間もなくて。。。ぶつぶつ。。。すみません、言い訳はおいて、新しいキーボードを入手できたことで、復活です!

最後の書き込み(1月16日)からすごくたくさんの祝福に恵まれています。

一番はダントツで、今年の私の祈りについて。
昨年末からの冬の聖書キャンプが明けた際に、私の中には「神さまからの霊的祝福についてもっと知りたい!」という強い思いがありました。きっとこれは、教会のほとんどの方(あるいは全員)の願いだったに違いありません。

毎週の説教を通して、その答えが与えれているのです。

神さまの霊的祝福が漠然としてものでないこと。これを知り始める、というのは、ものすごく大きな祝福です。どういう意味で?

私は、俗に思春期と呼ばれる頃に、人生の目的や希望が見つからなくて、生きていてもしょうがない、って本当に思っていました。楽しいこと、感謝すべきことに囲まれながらも、全くそのすべてを理解していなかった、というのか。

でも、神さまはそんな私にも望んでおられたんですよね。


*******今日の聖書の言葉*******

 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているように
 すべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
              (ヨハネの手紙第3 2節)

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素晴らしいですね!これは私だけでなく、あなたにも与えられている願い、約束です。
神さまご自身が、あなたに、幸せであってほしい!と願っておられる。

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2010年1月16日土曜日

霊的生活 vs. 魂的生活

今日の説教は「霊的祝福 No.2」。


先週は、下からの水と上からの水の話しを中心にされましたが、今日は霊的に生きているものが求めるものと世の中で生きている人が求めるものの違いを、みことばを持って説明されました。


私たちは、人間として生活する際に普通は地位、名誉、お金、等の物質的なものに目を留めます。でも、霊的に生きているもの、例えば天使たちは、人のいのちが救われること、神のことばにとても興味がある。そして、イエスさまを信じて、クリスチャンとされた者は霊が再活性化されるので、霊的に生活をするはずである。けれどもし、私がクリスチャンでありながら、まだ物質的なものを熱心に求めているのであれば、それは霊に属するものではない、ということをみことばを持って説明されました。そして、見えるものを追って生活するのを魂によって生きる、つまり魂的生活とも呼べるでしょう、と。


うぅ。宗教家を捨てたい私には、耳の痛い話し。でも、大切なことです。自分の症状だけでは、病気が治せないように、原因をはっきり知って、その原因を治療することが出来れば、病原菌と戦うことが出来るのです。同じことが宗教家的生活でも言えているのですよね。また、物質的なもの、目に見えるものを追っている人でも、その度合いによって、霊的に死んでいるレベルが違う、って。実際には人間として地上に生きているけれど、私は霊的にどのくらいのレベル死んでいるんだろう。。。


前回とその前の書き込みをして、息子の発言から「心の目」の存在を改めて考えさせられている中で、私は説教を通しても、霊の目を開くことを示されました。神さまが「もっと霊の目を大きく開きなさい!」と叱咤してくださっているように受け取りました。霊的生活を極自然にできるようになるのを目指して、がんばろ。それは霊によって歩む、ということですね。


学ぶところが非常に多し。これは霊の目が開かれつつある、ということでしょうか?!?何だか、これが年初めなんて、ワクワクしますね!感謝です♡


♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡


教会のクラフトチームではバレンタインにお遣いいただけるような、お菓子パックをスタンプとパンチで作り始めました。バレンタインまで、後一ヶ月ですね。神さまの愛を伝えるために、この日が用いられますように。




*******今日の聖書のことば*******


  人間の息は主のともしび、
  腹の底まで探り出す。
            (箴言20:27)


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人間には、神さまから与えられている霊があります。その霊は、神さまがあなたをこの世に送ってくださった目的や神さまがあなたに望んでおられるベスト(最善)をも知っているんですね。その霊が活発でありますように。


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2010年1月14日木曜日

どこで見るの?

イエスさまが見えるとか言う息子に対して、私は特別に「そんなこと言っちゃ駄目でしょ」とかという自分の視点からの表現をしなかったけれど、それで良かったのかな。親として、大人の固定された考えを、子供たちに、そう無限に想像力を膨らませることが出来る子供に対して押し付けようとは思わない。すべての大人が、自分の考えを表現する時に押し付けるように発言するわけでは決してないけど、私の場合、結構ことばが強いし、押しつけ風に聞こえてしまうことが多々あるから。。

でも、あんまり気になるので、聞いてみました。
「ねぇ、昨日言っていた、イエスさまが見えるって。本当?」
会話はまたもや通園途中の車の中。
「見えるよ〜!」
私の反応を少し待ってから息子は、
「教会でも、うちでも、目を開けていても、目を閉じていても」
また少しして、「イエスさまが外にいても、心の中にいても、見えるよ!」

えっ。。。目を閉じても???

「ママ、イエスさまは心で見るんだ、って知っているよね?」
ですって。何だか、私の素朴な問題解決。
でも、そうか、子供には、やっぱりそういう心の目が働いているんだなぁ。
ちょっと考えさせられる発言でした。

********今日の聖書のことば********

  私たちは、見えるものにではなく、
  見えないものにこそ目を留めます。
  見えるものは一時的であり、
  見えないものはいつまでも続くからです。
       (コリント人への手紙第1 4:18)


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今日も訪問してくださって、ありがとうございます♡

2010年1月12日火曜日

見えるもの

皆さん、新しい年を迎えてもう2週間が経とうとしていますが、いかがお過ごしですか?私は新年、気持ちを新たにブログの背景を変えてみようと、時間を見つけては試みているのですが、サイドバーの維持が出来ないみたいで、ちょっと頭を抱えています。もう少しITに関して知識があるといいんだけどなぁ。

いま教会では、私が新年の豊富にあげた「霊的祝福」について学び始めました。水には、下からの水と、上からの水がある、って。聖書に通じていらっしゃる方はきっと、あそこかしら?と思い浮かぶ方もあるかもしれませんね。はい、ヨハネ4章、サマリヤの女のことからも学んでいます。

私はこのイエスさまが井戸端であったサマリヤの女のことを聖書で読むたびに、自分の過去を思い出します。自分の幸せを他の人に求めていた。自分の心の餓え渇きを、人間同士の交わりで求めようとしていた。でもそれは全然満たされるものではなかったのです。

初めて、いま通う教会に足を踏み入れた時に、自分が人生で探していたパズルの一片がポンッ!と音を立てて心にはまったように感じました。それが、上からの水だったんですね。

私はそれまでに、人生の中でどれだけお金を持っていても、家族がいがみ合っていたり、幸せでなかったり、幸せを振る舞っていても満たされていない、という人を沢山見てきました。人間が地上で手に入れられる見えるものには、人を幸福にするには限度があるけれど、神さまからのもの、ってその枠にはまらないんですよね。

そうそう、今朝息子に聞かれたんですよ。「ママ、イエスさまって見えるよね?」私たちは息子の幼稚園に向かっている時だったので、運転しながら、無言になってしまいました。しばらくして、私は静かに聞いてみました。「あなたには見えるの?」

息子は不思議そうな顔をして、「見えるよ。心の中にいる時は見えないけどね」へっ??
「でも、ミス・ダーリーンは見えない、って言うんだよ」  ・・・

そう、見えるの?こういうところで、私は極力自分の考えを子供に押し付けないことにしています。子供の心には、イエスさまというお方が見えるのかもしれません。それは彼らの心の目がまだ完全に開いていて、霊的なものに敏感だから。

私たちは、大人になるに連れてそうした感覚を軽視し、鈍らせて、ついには神さまとの交わりを完全に絶ってしまい、自分のしたいことを、自分が善悪を決めて生活するようになります。それが霊的に死んだ状態です。でも、心は知っています。だから、心が上渇くのだと、私は思います。上からの水、求めてみませんか?

興味のある方は、教会のサイトからPod Castingでメッセージがお聴きできますので、是非訪れてみてください。


*******今日の聖書のことば*******

 心のきよい者は幸いです。
 その人は神を見るからです。
           (マタイの福音書 5:8)
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2010年1月3日日曜日

A Happy New Year from Pasadena, CA

開けまして、おめでとうございます! 
今年もよろしくお願いします! 

我が家の年末年始は、冬のバイブルキャンプで過ごさせて

いただきました。 
そのタイトルも「私にあるものをあげよう」。 

単純に「恵まれました」という言葉では表現し難いくらい、 
奥の深い、恵み多き日々を過ごさせていただきました。 

「私にあるもの」 

私が既に与えられているもの。 
使徒の3章から、ペテロが足なえの男に向かっていう 
「イエスの御名によって、立って、歩け!」という言葉から、 
単に祝福の事を想像していました。 

この地上で生きるための、必要とか、自分に取って良い事、 
そういう事ばかりを今まで願ってきた自分の姿を示されまました。 

神さまは、それ以上に、霊的祝福をもって、私たちにすべての権威を 
委ねておられる。その裏付けを、牧師先生は、聖書の言葉をもって 
解き明かしをしてくださりました。 

私たちは戦うのではなく、ただ立ち向かう、みことばをもって 
しっかりと立っているだけなんですね。 

今回のキャンプで、牧師婦人の導きの時間にも自分自身がいかに 
交わりをもたずして、聖書を読んでいるかが知らされました。 
私の大好きな聖句の一つ、ヨハネの福音書3章16節。 
この聖句は私は、手作りカードにもよく使っています。 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 
 永遠のいのちを持つためである。
 

この箇所から、「いのちとは何か?」と尋ねられた際に、 
私ははっきりと答える事が出来ませんでした。 
救い、天国へ入る切符、そういったたぐいのものしかあげられなくて。 

永遠のいのちとは、私にとってなんだろう? 

貧しい人が豊かになること 
淋しい人が、慰めを得ること 
病んでいる人が癒されること 

みことばとは、そういった具体的なものであるんですよね。 
私は改めて、気づかされました。このみことばが、また一段と 
心の奥深いところに根付いたように思います。 

感謝とともに。また、神さまに期待しつつ。 
すべての栄光を神さまにお返ししつつ。主の名を褒め讃えつつ。 

さて、今年の抱負は。。。何にしようかなぁ。 

  *******今日の聖書のことば******* 

   見よ。わたしは新しい事をする。 
   今、もうそれが起ころうとしている。 
   あなたがたは、それを知らないのか。  
                  (イザヤ 43:19)
 
  ***********************



キャンプ中のハイキングで

イースターウィーク

シャローム。 今週は受難週、イースター(復活祭)の前の週ですね。 復活祭とは、イエス・キリストの復活をお祝いします。 そして受難週とは、復活祭の前日までの1週間のことです。 このイエスが神の子でありながら、地上に人間として送られました。 ご自分は罪のない...