2010年1月12日火曜日

見えるもの

皆さん、新しい年を迎えてもう2週間が経とうとしていますが、いかがお過ごしですか?私は新年、気持ちを新たにブログの背景を変えてみようと、時間を見つけては試みているのですが、サイドバーの維持が出来ないみたいで、ちょっと頭を抱えています。もう少しITに関して知識があるといいんだけどなぁ。

いま教会では、私が新年の豊富にあげた「霊的祝福」について学び始めました。水には、下からの水と、上からの水がある、って。聖書に通じていらっしゃる方はきっと、あそこかしら?と思い浮かぶ方もあるかもしれませんね。はい、ヨハネ4章、サマリヤの女のことからも学んでいます。

私はこのイエスさまが井戸端であったサマリヤの女のことを聖書で読むたびに、自分の過去を思い出します。自分の幸せを他の人に求めていた。自分の心の餓え渇きを、人間同士の交わりで求めようとしていた。でもそれは全然満たされるものではなかったのです。

初めて、いま通う教会に足を踏み入れた時に、自分が人生で探していたパズルの一片がポンッ!と音を立てて心にはまったように感じました。それが、上からの水だったんですね。

私はそれまでに、人生の中でどれだけお金を持っていても、家族がいがみ合っていたり、幸せでなかったり、幸せを振る舞っていても満たされていない、という人を沢山見てきました。人間が地上で手に入れられる見えるものには、人を幸福にするには限度があるけれど、神さまからのもの、ってその枠にはまらないんですよね。

そうそう、今朝息子に聞かれたんですよ。「ママ、イエスさまって見えるよね?」私たちは息子の幼稚園に向かっている時だったので、運転しながら、無言になってしまいました。しばらくして、私は静かに聞いてみました。「あなたには見えるの?」

息子は不思議そうな顔をして、「見えるよ。心の中にいる時は見えないけどね」へっ??
「でも、ミス・ダーリーンは見えない、って言うんだよ」  ・・・

そう、見えるの?こういうところで、私は極力自分の考えを子供に押し付けないことにしています。子供の心には、イエスさまというお方が見えるのかもしれません。それは彼らの心の目がまだ完全に開いていて、霊的なものに敏感だから。

私たちは、大人になるに連れてそうした感覚を軽視し、鈍らせて、ついには神さまとの交わりを完全に絶ってしまい、自分のしたいことを、自分が善悪を決めて生活するようになります。それが霊的に死んだ状態です。でも、心は知っています。だから、心が上渇くのだと、私は思います。上からの水、求めてみませんか?

興味のある方は、教会のサイトからPod Castingでメッセージがお聴きできますので、是非訪れてみてください。


*******今日の聖書のことば*******

 心のきよい者は幸いです。
 その人は神を見るからです。
           (マタイの福音書 5:8)
***********************

今日も訪れてくださって、ありがとうございます♡
応援ポチッしていただければ幸いです。


にほんブログ村 子育てブログ キリスト教育児へ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿

イースターウィーク

シャローム。 今週は受難週、イースター(復活祭)の前の週ですね。 復活祭とは、イエス・キリストの復活をお祝いします。 そして受難週とは、復活祭の前日までの1週間のことです。 このイエスが神の子でありながら、地上に人間として送られました。 ご自分は罪のない...