2011年2月28日月曜日

死というもの

雹が降った後かなり冷え込んでいるパサディナから、こんばんわです。昼間は少し暖かいですが、朝夕は、さすが元砂漠地帯の気候からかめっきり冷え込んでいます。こんな季節の変わり目は風邪等引かないように、うがい、手洗いをしっかりね。

昨日の日曜4時の聖書勉強の中で、クリスチャンになる前とクリスチャンになってから死に対する態度がどう変わったのか、ということが話されました。私自身も以前は、死は人生の終わり、だと思っていた。それ以後は何もなし。だから、自殺をしたら、泡のように消えてしまうんだ、と美しくも思っていた。ましてや、その頃は肉体の死のことしか知るすべもなかったし。

イエスさまに出会って、クリスチャンになって、死というものが肉体のものだけでないことを知り、生きていても希望がない人生、そう、そういう人生を私は長い間歩んで来たんだけれど、神様から離れてあるいは神さまの近くにいるつもりでも、自分の力で一生懸命に生きようとしている人生は、霊的には死んでいる状態を作り出す。そういうことを知りました。
逆に、肉体は滅びても、人は生き続けるということも。天国が地獄かでね。

怖いのは。。。クリスチャンであっても、肉体は生きながら霊的に死んだような状態にはなり得る、って云うところです。現に、自分もそういう時期があったし。今の自分も吟味しないと、そういう状態に陥ることがある。私に欠かせないのは自己吟味かな。

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教会から帰って来て、実家に電話をしました。久しぶりの電話。母が「みんなは変わりがないけど。。。」といって、すぐお向かいに住んでいるご家族の娘さんが亡くなったことを教えてくれた。妹より1歳年下だったから、まだ41歳だったはず。

具合が悪いので、風邪かな?と思って、自分が勤める大学の病院のお医者さんに診てもらった時には、もう余命1週間だったそう。ご両親が呼び出され、大雪の中を彼女に会いにいらしたのだそう。

みんな人間的には悲しかったけど、きっと神さまが彼女を天国で必要とされたんだ!となんだか、その悲しさの中に希望があった、と母は語っていた。

ちょうど教会で話されたこと、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」とおっしゃったイエスさまとラザロの話しを母にした。ふ〜ん、よみがえるのかぁ。とちょっと人ごとみたいだった母ですが、「希望があるね」と言葉を締めくくっていた。

あるね、希望。それに、私たちはいのちにあって支配する権威が与えれている。それは単に素敵なこと、ではなくて、聖書に書いてあること。現に、毎日生きる希望そのものを見つけようとしてもがいていた、死にたい、という思いに囚われていた私が、今こうして、生きることは希望です、いや生かされることは希望であり、恵みです、なんて書いていること自体、私には不思議(神のわざ)の一つです。

自分のことが大嫌いで、人を、両親すらも信じることが出来なかった私が、人を愛そうとしている。それは神さまやイエスさまの愛に比べたら完全なものではないけど、自分の中で愛が芽生えている。年齢の若い人が昇天するのは人間的には悲しいこともあるけど、時を超えて働かれる神さまに期待しつつ、またその人との天国での再会を楽しみにしつつ、今日まだ私が生かされている意味を考えてみよう。そうだ、Sympathyカード作ろうかな。


******今日の聖書の言葉********

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、
また、誰もわたしの手から彼らを奪いさるようなことはありません。
           (ヨハネの福音書 10:28)

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雹の降った後は、雪化粧の山々がきれいでした^^

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