2011年3月8日火曜日

支配する=支払ワレタ、ということ?

私はずいぶん前からカリフォルニアの空が大好きだった。真っ青な空。それは、思春期の前から自由になれなかった、なりきれなかった自分と正反対で、かつ私を待っていてくれるような空だったから。



今日も今晩わの時間の書き込みです。

数週間、いのちにある支配、という題目のもと教会でメッセージを聞いているので、自分の生活の中にそれを適用すべく、自分がかつてあるいは未だに囚われている部分を見直す機会が与えられています。

あなたは何か囚われているものありますか?

かつての私は、ギャンブル、お酒、交友関係、タバコにも囚われていました。未だに囚われがちなところ、というのは、「〜がない」という視点。例えば時間、お金、旦那に対してとか、子どもに対してとか。

前者諸々は、クリスチャンになってもしばらくは続いていた部分が多かったです。でも、気づいたらこれらのものは私にとって必要とないものになっていました。自分が欲しなくなっていた、という言葉通りです。これらのものは気がつけば、一時の快楽に過ぎず、私が欲してそれを手に入れても、決して私に喜びを与えてくれるものではありませんでした。

後者については、まだ心して構えていかないと、ついうっかりした表現の中に、自分が囚われているなぁ、と気づかされるところが沢山あります。どの視点で、自分が直面していることを見るのか、ということが鍵であることも分かって来ました。

現実だけに目を止めたら、それぞれの人が24時間という限られた時間を与えられているけれど、でもその時間が時によってはとてもゆっくりすすむことによって限られて入る時間の中で沢山のことをこなすことが出来る。そういうことを体験しています。

現実だけに目を止めたら、幼少時からの体力のなさ、神経質、等、いろいろな理由からストレスでぶっ倒れても不思議ではない中、フルタイムでの勤務、6歳児の母であり妻であり、教会でさせていただいている奉仕等、自分にこんなに体力あったかなぁ?と思い起こし、感謝することは毎日です。

これもひとえに、イエスさまを心に受け入れたときから、私の罪が帳消しにされ、義とされた者に与えられた特権です。いのちにあり、支配する者とされている、ということは罪が帳消しに、そう支払われた、ということなんですね。

この支払われている代価によって、私は確実に自由になっています。囚われなくなった。前は一生懸命自分の本質を隠していたけど。。。そうそう、「イチジクの葉で何を隠すことが出来ようか!」と礼拝の中で語られ、自分の滑稽さに気づき、さらにもう一歩自由への道を歩みだした、という訳です。カリフォルニアの青い空のようにね。

自分が良い人になりたくて、良い人に見られたくてがんばって来た部分。そんな滑稽さも含めて、神さまが「そのままでいいんだよ」と呼んでくださった、その愛に、今年は応えたい、というのが願いです。Come just as you are.....そのままの君でいいんだよ。

もしあなたが一人で悩んでいたら、教会に行ってみてください。聖書を読んでみてください。

気づいたら、支配する=支払われたではなく、(代価が)支払われたから、支配するようになった、のですね。でもそのことによって、イエスさまが私のうちにおられる、今はこのことを心して信じ、受け止め、生活させていただいております。恵みだなぁ。

今日はなんだかこのみことばが気になる。

*******今日の聖書の言葉********

(イエス・キリストの言葉)


 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
 わたしのところに来なさい。
 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
               (マタイの福音書 11:28

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今日も訪れてくださってありがとうございます。
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