2011年3月24日木曜日

ドアを開ける時

日曜日は大雨が降って、二日間の曇り空のあと、また今日も雨でした。



3月も半ばを超えてからの雨は、珍しいけれど、なんだかこれも日本で起こっていることを思って流されている涙のようで、ちょっとセンチメンタルになっています。

今回の津波というのは、避難所にいらっしゃることが出来た方々も、多くの方が他の方が波に飲み込まれるのを目撃されているのではないでしょうか。一瞬の出来事とはいえ、自分ばかりが助かって、等の罪責感が残りませんように、と祈り始めました。

この震災でご親戚の方の安否が気遣われた知人にお名前を預かり、ネットを通して、様々な避難所の名簿をあさるようにして連日探し、5日目に無事に避難されていらっしゃるというニュースを得てホッとするまで、表現しがたい不安が心をつかみそうでした。「大丈夫」と言い聞かせても、何をもって大丈夫なんだろう?と悲しくなることもありました。

ご親戚の方のほとんどは避難されていたのですが、お一人の方は、津波が来るので逃げるように促されても、寝たきりのお母様のそばを離れない、と心を決められ、その場に残られたそうです。まだどちらにいらっしゃるのか分らないままです。どこかに避難しておられることを祈っています。

同じ町で、釣りに出ていて、釣れないので自宅に向かって帰宅途中に、バイクで転倒して救急車で運ばれたので、津波を間逃れた方があるそうです。

赤ちゃんからお年寄りまで、沢山の方が亡くなり、まだ行方不明となっている今回の震災。また愛する方の安否が分らないままでいる方々も沢山いらっしゃいます。お気持ちを察するだけで、心が痛みます。

いのち、って何でしょうね。

いま、多くの方がおそらくなぜ自分は生き残ったのか、あるいは生かされているのか、という疑問をお持ちになっているのではないでしょうか?

人には、人生の中で何度か、神さまがとても近くまで接近される時があります。多くの方にとって、それは「いま」ではないでしょうか。

そう思われたら、お近くの教会へお出向きください。躊躇されることはありません、だれでも、歩くのに「初めて」の時があり、話しだすのに「初めて」の時があり、教会へ行くのにも、「初めて」の時があります。あなたにいま必要なのは、教会へ行く勇気かも知れません。

ここ数週間、教会のメッセージ(説教)を通して、心に示されたこと、植え付けられたことを書き込んできましたが、一つはっきりと書いていなかったことがあります。それは、いのちにある支配も、告白したことが成就するのも、イエス・キリスト、という方につながっていなければ、その権威、権利が与えられていない、ということです。

人は、神のかたちに造られましたが、全ての人が罪を犯し、神さまとの交流が出来なくなりました。しかし、神のひとり子でいらっしゃる、ご自身では罪を犯されなかったイエス・キリストがあなたのために、あなたの罪を背負って、十字架にかかってくださいました。そして地獄に下り、3日後に復活されました。イエス・キリストを信じる者は、全ての罪が赦され、神の子とされ、神の義とされます。

頭で考え始めると分らないことがあるかもしれません。でも、心でそれを受け止める時、神さまの霊が働き始めます。

教会は、神さまの霊の満ち満ちたところ。是非、お近くの教会へ。神さまの愛と、神さまの霊が、あなたの心に触れてくださいますように。祈りつつ。

******今日の聖書のことば********

  見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。 
  誰でも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
  わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、
  彼もわたしとともに食事をする。
            (ヨハネの黙示録 3:20)
***********************

今日も訪れてくださって、ありがとうございます。


にほんブログ村 子育てブログ キリスト教育児へ

0 件のコメント:

コメントを投稿

イースターウィーク

シャローム。 今週は受難週、イースター(復活祭)の前の週ですね。 復活祭とは、イエス・キリストの復活をお祝いします。 そして受難週とは、復活祭の前日までの1週間のことです。 このイエスが神の子でありながら、地上に人間として送られました。 ご自分は罪のない...